若狭塗の歴史と特徴
若狭塗のはじまり

若狭塗は小浜藩の御用塗師「松浦三十郎」が支那漆器の一種存星をヒントに、海底の様子を意匠化して考え出したのがはじまりです。
江戸中後期にかけては若狭塗の黄金時代で、箔押し研出し技法(青貝・卵殻)、螺鈿以外にも蒔絵の技法も併用され、200種以上にも及ぶ塗手法が完成されていたと言われています。
※螺鈿(らでん)…貝殻の内側の光る部分を花鳥等の形に切って磨き、漆器などの面にはりこみ、飾りとするもの。
※蒔絵(まきえ)…漆で絵を描き、乾かないうちに金銀の粉をつけて、のちに磨いて光沢を出したもの。
お殿様が一番のファン

寛永11年(1634年)若狭の国に赴任した酒井忠勝が『若狭塗』と命名し、同時に藩を挙げて手厚く保護奨励しました。その惚れ込みようは、酒井家秘宝の漆芸とするだけでなく、他藩への技術流失を禁止したほど。
承応2年(1653年)忠勝は塗師三十郎と木地師に、およそ7ヶ月間もの長期間、江戸表で細工をさせたとか。いわばこれは、天下に若狭塗を広めるためのデモンストレーション。この時の三十郎への褒美は銀2枚米納五俵ですが、万治2年(1659年)には扶持米を与えられるまでになりました。
若狭塗にお椀がないのはなぜ?
質素倹約を美徳とする徳川時代では、華麗な若狭塗りは一部の公家や武家、裕福な商家で使う調度品のみに扱われました。若狭塗に汁椀などの庶民的な生活道具がないのはそのため。
文久2年(1862年)皇女和宮が徳川家に御降家のお支度品の塗物はすべて若狭塗で整えられました。
シーボルトも持っていた若狭塗

シーボルト著「日本」に掲載されていたものと同じ花見弁当。江戸中期作のもので、若狭塗独特の松葉を使ったおこし模様が施されています。
貝で描かれた鳳凰の酒入れが組み込まれていて、当時の風流な様子がうかがえます。
古代若狭塗りの風流な文様

模様の作り方はほとんどがおこし模様という方法で、貝や卵殻、松葉や紐を下地塗をした上において模様をつけていきます。
そのまま塗り込んでいくものと、取ったその後の型に漆を重ねて凹凸 をつける方法があります。